トラディショナル ハワイアン ウェディング (カヒコ ウェディング)

by Leilehua Yuen ハワイ州公認カフ(結婚式の司祭)ハワイ文化の伝承者、歴史家、作家、アーティスト、クムフラ
今日の、美しくロマンチック なハワイアンウェディングは、多様な文化や伝統が織り込まれています。同時に新郎と新婦の人柄や、希望を組み込んでつくりあげる特別な式でもあります。近 年のハワイの結婚式にはヨーロッパやアメリカ、アジア、アフリカ、そしてポリネシアなどの伝統が取り入れられています。私は司祭者として、カップルたちに 依頼され、それぞれの文化や信仰を取り入れた式をつくりあげるお手伝いをさせていただいています。両者と話し合い、デザインさせていただいた式には、燃え おどる松明の炎とホビ族の水瓶、ハワイの伝統的な儀式と神道の盃の儀式、メキシコのロザリオのコード(ラゾ)と、ハワイの花のレイを同時に行うなどの独創 的な結婚式がありました。
ハワイの島々は多くのロマンスがあることで知られており、古くから伝わる話には、誘惑やロマンチックな興味をそそるようなテーマに基づいているものも多くありますが、西洋式の結婚がハワイの文化にとりいれられるようになったのは1820年以降からでした。

古 くには、現在のような結婚式に匹敵するものはありませんでした。今日のような結婚というカタチは存在しなかったのです。行政の許可も、法的な要求も、もち ろん離婚もありませんでした。一人の男性と一人の女性が「他をすべて見放し、お互いに忠実に」すべきという期待もありませんでした。高い地位にあるチーフ たちは一夫多妻制や一妻多夫制をとり、男女ともに、何の理由が無くとも、それぞれいつでも自由にパートナーを替えることが出来ました。お互いに、夫婦関係 に生産性が無くなったと感じれば、彼らは単純に別の道へと進みました。子供たちは大家族の中で育てられていたので、夫婦が別れても、子供達の人生に影響を 与えることは、ほとんどありませんでした。

ハワイ語の maka`ainana(土地の人)という、いわゆる一般の人々は、島から島、地域から地域、家族から家族で別々の伝統を引き継いでいました。「結婚」とは、同じマットで寝て、家庭を築いていくという単純な決めごとの場合であったり、二つの家族が互いに集い、贈り物をしあい、 `aha`aina というご馳走でもって祝う宴を催すことでもありました。現代では、このような慣習法に基づく結婚は、 noho pū とよばれています。
お互いへの執着が少なかったため、嫉妬は稀でした。しかし、そのような感情は存在し、恋愛を語るいくつかの伝説では、嫉妬が争いのもとであったとも描かれています。例えば「 Kahalaopuna」の伝説である Lu`ukia で伝えられています。もちろん中には、互いに生涯の愛を貫く人々もいました。これらの関係もまた歌と物語の中で扱われています。代表作の `Ōhi`a と Lehua の伝説や英雄 Umi と Kulamea の伝説は、心に響くロマンチックストーリーです。

各家庭によって違いはありま すが、好きな娘の家族のために、青年が、魚捕りの腕前や、見事な野菜を収穫出来ることを示すことが、典型的な求愛の始まりと言えるかもしれません。青年 は、彼女の家の男性たちの、日々の仕事を手伝うことに多くの時間を費やし始めます。もし娘の家族が、青年の同席を喜んだなら、彼は imu(ハワイの伝統的料理)の準備を手伝い、それを食べるために滞在することになります。そうして、彼は自分の家に戻らなくなり、恋人の家族の一員として、そこに残るようになります。彼らの愛情関係は、家族の発展の自然な一部とみなされるのです。
おそらく、もっとも有名なハ ワイ伝統の求愛方法に、バンブーノーズフルートを吹くことがあります。青年は、その土地にある、楽器を作るのに適した竹からフルートを形づくり、独特の曲 を作ります。彼らはその曲を特別な相手のために奏でます。そして、その曲を聞き分けることが出来るのは、特別な相手、ただ1人でした。時には、若い娘たちも自分のためにノーズフルートをつくり、デュエットをしたり、相手を呼んだり、答えたりするためにフルートを吹きました。

ある物語では、最愛の人にだけでなく、その祖父母にもレイを手づくりする恋人について語っています。その意味はつまり、 kūpuna(年配者)が言うように、相手の祖父母があなたを好いていれば、結婚を助け、サポートしてくれるかもしれないということです。

サーフィン競技にも求愛の役目があり、ハワイの歴史と伝説の要となる有名なロマンスのいくつかには、サーフィン大会が関係しています。男性も女性も、ともに長く楽しむことが出来き、体や板、カヌーを使って、波に乗る技術を発揮し合いました。
マウイ島のサーフィンをする女性支配者、Kelea のロマンスでは、彼女の波乗りの技術がオアフ島のチーフ、Lolale の注目を浴びました。しかし彼はサーファーではなく、また海岸よりも涼しい高台を好んでいました。そこで Kelea は彼のいとこでサーファーの、Kalamakua と共に彼のもとを去りました。
時に、並外れた高い地位にある子供たちは、幼い頃から将来の相手を決められています。家族の家系に熟練した Kahuna(専門家)が決定するならば、それは幸運と言えるでしょう。

同性の関係も知られていました。ワイピオ渓谷で高い位にあったチーフ、Liloa には、男性の愛人がいましたが、公式な「妻」で最高位の子供たちの母親と、彼の最も有名な息子 Umi( Kamehameha Pai`ea の祖先)を産んだ別の女性と、連携をとらせていていました。いくつかの物語の解釈では、彼の妻は、彼女自身の家を所有したことを示しており、Liloa は彼の愛人と、チーフとして年老いるまで、平和に暮らしたとありました。
結婚式

また同時に、そこには西洋式 の結婚式に匹敵するものはありませんでした。王族は結婚する際、とても念入りな式を催すかもしれません。しかしそれは夫婦の結束を捧げることを意味したも のではありませんでした。式では、これらの子孫が完璧な体と心を持って生まれてくるように、また偉大な mana(力)、もしくは神聖な力を備えたことを保証するために、 王族夫婦の子供たちに神の祝福を受けられるように願いました。

これらハワイ式の結婚式は、場面と家族に応じて変化します。王族夫婦が、一族の司祭や祈祷師に付き添われ、眠るための新しい家で、純白の kapa(木 の皮で作った布)のシーツに一緒に包まれ、仲間と子孫のために祈りと歌を奉納するような、簡素なもだったかもしれませんし、儀式用ギフトの交換や、王室の 司祭たちと祈祷師、親戚や利害関係者を参加させ、盛大な宴のために十分な食べ物を準備し、数日におよぶ式を念入りに仕上げたかもしれません。

いくつかの家庭では、子を生すため、夫婦に新しい家を建てます。これは以前から利用されている建物の消極的な mana が、子供に影響を及ぼす可能性を妨ぐためでした。夫婦が新しい kapa に包まれること、新しい皿に食べ物を盛ることも同じ理由です。曾祖母の moena(ベッド)や寝るためのマットが、偉大な mana を持つ、たくさんの子供たちの誕生を育んでいた場合、時に、それらは家宝として使用されたかもしれません。
式の全てで、子供たちに可能な限りの mana を与えることに集中しました。彼らの健康と成功はコミュニティ全体の成功を収めることを意味するからです。

モダン ハワイアン ウェディング
1819年にキリスト教が介入してから、新しい結婚のカタチが広く知らるようになりました。キリスト教スタイルの結婚は多くの家族から選択され、最終的には法的形式をとるようになりました。結婚を意味するハワイ語 「male」は、単に英語の「marry」を音訳したものです。ハワイ語の綴りは「R」を使わないうえ、母音で終わらなければなりません。そこで「male」となり発音は「MAH-lay」としました。

初期のキリスト教スタイルの結婚式は、それをもたらしたカルバン派の宣教師の教え同様に簡素なものでした。これらのいくつかの結婚式の記録は1826年頃から始まっています。代表的な結婚式は、通常の礼拝の最後に行われます。牧師、カップル、そして2人の立会人とが教会のドアに立って、群衆の前で誓いを立てます。その後、牧師が婚姻を教会の記録に書き付け、カップルと立会人がサインをします。

Mahalo to Ka`ahele Hawai`i