マカヒキ (Makahiki) – ハワイの新年

古来からハワイ人達はハワイの新年であるMakahiki(マカヒキ)を何百年もの間祝い続けてきた。

マカヒキという単語は少々複雑な単語である。なぜならば「年」と言う意味また「新年」という意味、そしてハワイ暦でいう新年の時期を意味する二ヶ月から最長四ヶ月間の季節を表す言葉だからである。この季節の期間は、島ごとによって異なった。

古代、一年が幕を閉じるのが近くなると、それぞれ住人のいる島の西方に特別に設置された寺院でそこに携わる司祭達が、Makali`i(以下マカリイ)つまりプレイアデス星団の様子に注意を向けた。司祭たちは、日没の直後東方の空でマカリイを確認すると、次の新月がマカヒキの季節の始まりになると報告したのである。最近では、11月17日がこれに当たる。古代は、これよりも幾日か早かった。

Huihui Kōkō a Makali`i (Pleiades)
There are many legends of the this star cluster. Huihui-koko-a-Makali‘i-kau-i-luna (“Makali‘i’s rainbow colored nets hung above”) is a food net hung in the sky. `Iole, the Hawaiian rat, chewed the net and allowed the food to fall back to earth, saving the Hawaiian people from starvation.

この時期は、戦争および大体の労働が禁止とされ、人々はスポーツや娯楽を楽しみながらその季節を祝った。ここで行われたスポーツや様々な競技は、ただ娯楽としてではなくやはり神聖なものとして行われ、人々の力強さを神々へ見せるという意味も持っていた。

ハワイ島の天文台の情報公開とアウトリーチのマネージャーでオアフ島ホノルルのビショップ博物館にあるフォーマープラネタリウムのマネージャーを兼任するPeter Michaud氏は「私の憶測では、恐らくマカリイがどこから上がって来るのかを示す石かまた何かで作られた隆起した物体があるヘイアウがあったのだろうと考えている。司祭は薄明かりの中でマカリイを見ていたのだろう。それらがみてとれる時間帯は不規則で、雲や薄霧などの環境状態に左右されただろうと思われる。それは全く不完全なものであったに違いない、なぜならそれはある種の自然任せの観測なのだから。。現在では、私達はコンピューターを用い星団が日没後にいつ出るのかをぴったりと割り出すことが出来るけれど。」と言っている。

November 17, 2015
Subaru (Makaliʻi) rising in the east

地球が宇宙空間で回転をする際、地球はわずかに揺らぎ傾く。

この傾きが完全な一つの周期を終え元に戻るには何千年もの時間がかかるのである。

1500年から2000年前ポリネシア人の航海士達がハワイ諸島に到着した時、プレイアデス星団は現在よりも約三日ほど早く空に昇っていたとされている。

しかしながら、実用においてこのことは数週間単位で変化する雨季と最長四ヶ月に渡る祭典にとってはほとんど重要なことではない。

2015年12月13日の夕暮れ時、新年の始まりを確認する。

ハワイ暦は日が変わる瞬間が、夜中から朝にかけてではなく、

夕暮れ時と考えられている点でヘブライ暦に似ている。

マカヒキの詳細は島ごと地域ごとで多種多様であった。

しかし、一般的に共通して豊かさの神であるLONO神(以下ロノ)がこの時期の島々を支配していた。

彼の神像は、その島を海岸沿いに時計回りで一周各地域に点々と手渡されて行き、その祝賀は彼の到着の直前から始まり、彼の出発で幕を閉じた。

ロノが旅をしている間、島全体で全ての争いごとは禁断とされていた。

大体の労働も禁止であったが、特別な日に限り宗教的な法律であるKAPU(タブー)は人々に農耕や魚の採取を許すため緩められた。そのためこの時期に人々が飢えることは無かった。

LONO-MAKUA像(ロノマクア:父なるロノの意)が到着する前に、与えられた地域でマカヒキの祭典を統括するためLONO-MAKUAへの奉納品という形で税が徴収された。

その奉納品には、野菜としてタロ芋、硬いタロ芋のペースト、サツマイモそれから鶏、犬、干物、衣類、縄、羽毛、羽毛のレイその他の価値あるもの、日常の必需品の数々が含まれていた。

これらの品々は、ある程度は次の年においての宮廷の式典などにおける補助になっていたようだ。

それから、四、五日間続けてHi`u-Wai(水しぶき)と呼ばれる儀式が行われていた。

肌寒い月の到来から砂浜に焚き火を燃やし、人々はそれから儀式的に海に浸かりそしてその炎に当たり体を温めそして体を乾かす。そして新調した衣服を身にまとい新年をまつるのである。

Lono-Makuaを表す神像は毎年新しく作り変えられた。

それは、長い柱の頂点にロノ神の顔のイメージとその真下に横木が彫られた物であった。横木からは飾りとなる白いカパ、羽毛のレイそしてカウプ鳥の羽毛皮が掛けられた。

A Makahiki Procession
A Makahiki procession organized by Nona Beamer in Kohala in 2004.

このイメージはマカヒキの「長神」として人々に知られていた。なぜならば、それは長い道のりを経て島を巡り、このマカヒキの季節を通し旅するからである。

一つの地域にLono-Makua像が着くと、その神像はAkua Pa`ani像(スポーツの神)と共に設置された。

位の高い司祭の目を完全に覆い隠し、そして人々は幾日か続くスポーツと祭りごとに勤しんだ。例えばボクシングの実演、槍投げ、ソリ滑りその他たくさんの競技やスポーツが地域の人々を楽しませた。無論この時一切働くことは禁じられていた。

長神(LONO-MAKUA像)を運搬する使者たちはその地域の酋長の自宅で養われた。酋長の妻は新しいマロ(男性用のフンドシに似た一枚布の伝統着)でその神像を覆い、酋長はそれと共に鯨の歯で作ったレイを奉納した。

雨雲が南東から到来することが司祭達により指し示されると、それがロノの到来の証になった。そして司祭達はロノマクア像に肥沃なる大地と豊作を祈ったのである。

祝賀祭を通して民衆と酋長は、それぞれ自身の宗教的信仰を行うとともに非宗教的な任務を持っていた。

民衆達は、彼らの酋長が治める地域が拡大し更なる繁栄を祈願すること、そして彼ら自身と酋長の健康を祈願するということを祈った。

更に、彼らは色々な努力が報われ成功することを願い祈祷した。

それから酋長達は、自身の健康と繁栄それから多くの子孫に恵まれることを祈願したのである。それらのことは酋長としての繁栄を意味していた。つまり大地と人々の繁栄である。

その一方、「短神」と呼ばれる神のイメージが長神のイメージが旅する海側の地域とは反対側の山側で祭られていた。

高地の人々は、短神とその神の旅路に同行するため、食料となるシダの芽の束を集めた。

短神は、島の各地域で特定の場所に一体づつ設けられた神であった。

つまり、ヒロにはヒロ地域のための短神像があり、プナにはプナ地域のための短神像があったということである。

短神が、次に長神が手渡されるはずとなる地域との境界に到達すると、その神の起源となる場所に帰ったとされた。

短神が起源となる地域へ帰ると祝賀のかがり火が燈された。

もしそれが晴天の夜だったならば、それは繁栄の兆しと考えられていた。

その翌日、高位の司祭から目隠しが外され、釣り船が送り出された。

漁師たちが釣りをする間、その他の人々は森でシダの芽を集めに行き、

そして釣り船が戻ると男の酋長とその他の男達は魚とそれからシダの芽で食事を取った。

これが幾日か繰り返された。そして最終日になると酋長達と女達がその食事を取った。

地域の祝賀祭の最後に、司祭達が土地の解放を言い渡す祈りを捧げる。

そうして長神は顔を下に向かされ、そして次の地域へと運ばれる。

そこでまた同じプロセスが繰り返されるのである。

 

ロノの神像が完全に回路を回りきるには、確かにマカヒキの季節である二ヶ月ないし四ヶ月という長い期間がかかったのだろう。しかしながら、どの地域においてもこの二ヶ月ないし四ヶ月間カプの元に労働を全くしなかったわけではない。

労働の禁止また競技や馳走の日々は神像が地域内に入っている間だけその効力をもたらしていた。

しかし、神像の移動を妨げるような争いごとについては島全体で完全に禁止とされていた。

LONO-MAKUA像が最終的に彼の起源となる場所に帰る日、高位の酋長は海に浸かりその身体を清めに行った。そして体の浄化を終えた後、酋長と彼の戦士たちは海へと彼らのカヌーを出航させたのである。

この部分は、おそらくロノにまつわる伝説の再現であるのではないかとされている。

そして、その後彼らが砂浜に引き返すと敵軍役の戦士たちが待ち構えている。

酋長は、彼のカヌーから岸に飛び降りそして槍術の達人である、一人の家臣が護衛の為に彼について行く。敵軍役が酋長目掛けて一本の槍を投げ、そしてその槍は彼の家臣によって打ち払われる。

そして敵軍役は二本目の槍で酋長の体に触れるのである。

その午後、二つの軍は模擬戦争をし、高位の酋長は長神であるLONO-MAKUAと短神への供え物を作る。

あくる日は馳走が用意された。それはイム(ハワイの古来の土を掘って石を熱し使用するカマド)で一晩中蒸され、明け方食べごろとなる。

全ての人々がこの神聖な饗宴に参加した。

現代におけるキリスト教のミサで用いられるワイン同様に、なんでも残った食べ物は慎重に丁寧に処分された。

その同日、マカヒキの神像達は解体され寺院に安置された。

 

その他マカヒキの祭典を終える儀式の中には目の粗い網に様々な食物を満たすという儀式があった。その食物が包まれた網は振り動かされ、そして人々はその網を通してどのくらいの内容物が落ちてくるのかを見守った。

もし全ての食物が網の目を通し落ちたならば、次の年は繁栄し豊かな一年になると言われていた。

それから、一つの篭を食物で満たしアウトリガーカヌー(南太平洋で使われる浮き付きのカヌー)の帆の裾を張る円材の間に縛り付けた。

そして海へとそのカヌーを漕ぎ、篭は途中カヌーから切り離され神への奉納品として海へ漂わせた。

そして新しい寺院建設の為の木の伐採命令が与えられた。

一隻の塗装の無いカヌーが海で前後にパドルを漕いで日常生活に必要な漁業、農作、そのほかの仕事についてのカプの完全な撤廃を合図した。

 

民衆達がようやく彼らの普段の生活を取り戻しつつある間、酋長達と司祭達はこの宗教的行事の締めくくりを続けた。その後、幾日間か過ぎると高位の酋長はある一連の儀式によって清められ、残りの様々な活動に対するカプが撤廃された。

それから、ようやくマカヒキの儀式における義務もとい任務を終えたのである。

 

そうして最後に、高位の酋長、司祭、そして儀式の太鼓奏者が最後の聖礼典の神聖な豚の食事をとると、マカヒキつまり新年が幕を明けた。